父と母 Feed

2015年2月27日 (金)

戦後70年:数字は証明する2

特攻の命中率 終戦直前は9機に1機の11%

「知覧への旅ではお父さんは号泣したんよ」
と妹夫婦が想い出話をしてくれます。

遅ればせながら去年初めてその地に私も立つ事ができました。
館内は撮影禁止ですし、写真も撮る気にはなりませんでしたが
1枚
ありました。

「山本五十六氏はロスチャイルドの僕だった?」
などと囁かれると、なお辛い。

館内では検閲を意識の上で書かれたであろう遺書に、行間に溢れる
悔しい想いを感じ、ティッシュを手放せない、私でした。


〝軍神〟が「海軍のバカヤロー」と叫ぶ。それは当局にとって、隠蔽(いんぺい)すべきことだったでしょうから。

2014年7月12日 (土)

救われるようなきがします

戦争に行ったアメリカ兵の告発!「本当の敵はアメリカ国内にいた!」 (シリアやエジプトも全く同じ構図)
YouTube: 戦争に行ったアメリカ兵の告発!「本当の敵はアメリカ国内にいた!」 (シリアやエジプトも全く同じ構図)

私たちは戦争に行った経験のない人の話を聞くのでなく、

戦争体験者の話をこそ聞くべきですね。

まして法解釈の茶番なんて・・・、

聞きたくないのです。

あまりに寡黙で、多くを語らない戦時体験者である父の世代が、

本当に残り少ない中、発言される方は本当に大切にしたいものです。

多くの若者が本当の戦争を知ろうとしない中で、高校生等の真摯な活動等が

聞こえてくるのは、救われるようなきがします。

2014年6月26日 (木)

ユーモアに学ぼう

夏目漱石の手紙に学ぶ 伝える工夫

漱石先生のユーモアに学ぼうと、図書館で借りました。

先生が友人に宛てた手紙に

近頃女房が貰い度相成り候故、田舎者を一匹生捕る積りに御座候

とまあ、今なら女性蔑視等と国会で批判されかねない表現ですが、

照れも混じりなんとも率直な表現に想えるのは

やはり私が爺のせいでしょうか?

先生はその後29歳で、専属の家庭教師で教育をされたという、

19歳の深窓のご令嬢と見合い結婚をしたそうですから、

やはりあれは照れの表現だったのでしょう。

私の母は亡父のことを

「湯加減はどう?」と聞かれ

「じっとしてれば良いけれど・・・」

と応えるような人じゃったと・・・??

誠実でありユーモアを知る人でした。

2013年4月23日 (火)

父の書架に「原発ジプシー」

Img024久しぶりに実家で、亡父の書架にこの本をみつけました。

1979年の初版。

計算してみたら、34年前ですと父が60歳の時じゃありませんか。

平井憲夫氏が懸命に考えていた頃と概ね一致します。

親父も考えていたんだなあ・・・、

貴方が亡くなってから、貴方が心配してた?

通りの事故が起きました。

多くの方が警告を発し続けても、容易には届かな

いものなんですね。

2012年6月 7日 (木)

白内障の手術

89歳をやがて迎える母が白内障の手術をするというので、親族とともにその説明会がありました。

大勢の人・・・やっぱ・・高齢者が大半。

母もビデオと院長の説明に神妙に聴いてました、でも4年前の心臓手術とは違い格段の気楽さです。

私達の周りにも白内障手術の経験者は多く、

妻と私もとうからずお世話になるはず、熱心に聴きいりました。

白内障の初期自覚症状に 眩しさを感じる というのもありまして。

「最近夜の運転で対向車が眩しく感じるんよ・・・」

「僕もあんたを見ると眩しいンジャ」

「きれいじゃから?」

「化粧がテカットル・・・」

「あんたの頭こそ」

2011年11月29日 (火)

父の生涯って・・・・・深い ⑤

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多くの方に読まれている、永遠の0(ゼロ)百田尚樹著 です。

戦争を体験した方も僅かになってきた今、作品中に証言者として登場する人々は私の親世代です。

その一人ひとりが身近な存在で、読む人にとって父であり祖父なんです。

ミステリーの構成で、知識としは戦記、

内実は実に丁寧に描かれたまさに人間ドラマです。

読後ますます亡父と母の生きた深さを感じるようになりました。

2011年11月28日 (月)

自分が痛いの厭だよね

誰が決定権を持つのか、誰が責任を負うのか意図的に曖昧にしてきたのが旧陸軍、海軍の上部組織ででした。

大本営の人は悲惨な結果に終わった数多くの作戦に戦中も戦後も責任をとることはありませんでした。

今の東大以上の難関を経て高級士官になった軍官僚の人たちです。

責任を取らされたのは圧倒的にノンキャリアたちです。

この体質は脈々と現代の高級官僚に引き継がれてきました。

しかし戦中、戦後を通じてもっとも非難されるべきは私達一般大衆です。

私たちの父母は戦時中は軍に憚り、反戦主義者・平和主義者・共産主義者に対し非国民と唱和しました。

また戦後はGHQに対し憚り、戦中に持て囃した英雄達を村八分にしたり、その変わり身の素早さは破廉恥なくらいです。

明治維新から日本人はそのように破廉恥的適応を繰り返してきました。

誰にもこのような日本人的・農耕民族的・A型民族的・無主体性等の性癖が観られます。

端的に言えば「あなたはどう考えます?」ときかれ「皆さんはどう思われます?」と聞き返す体質です。

いまの時代実体の見え難い世論・多数の意見等と言い換えています。

私の亡父は「自分は前に出なかったからこそ戦争で死ななかったんだよ、先に立つ人は皆死んじゃった。喧嘩に負けてもあんまり気にするな。」と孫(私の息子)に教えていました。

ちなみに亡父は海軍下士官でした。

しかしここにジレンマがあります、私にも。残された時間が次第に少なくなってきたからでしょうか。

今この精神的閉塞感が大阪選挙で維新の会圧勝をもたらしたのでしょうか?

2011年11月27日 (日)

サイパンの戦い

去年の夏サイパンに家族旅行しました。

サイパン空港にも太平洋戦争の悲惨な写真が多数展示されてはいるのだが、それに観いる日本人はまれなようで。

中一の孫はもちろん、息子夫婦も戦争に対する関心は殆どないようでした。

現地のガイドさんは日本語で観光案内をしてくれます。

米軍の戦死者墓地は広々とまた整然と手入れの行き届いた公園のようでした。

歴代の大統領も必ず参拝するそうです。それに比べ日本人戦没慰者霊碑のわびしい事、、、、、「誰が、どの総理がお参りしましたか?それでいいんですか?」と問いかけるガイドさんの声は重く心に残りました。

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水際撃滅作戦の為に日本軍の陣地は海岸付近に集中しており、敵の艦砲射撃や空襲のよい的となった。このため守備隊は早々に壊滅し、水際作戦を指示した大本営の晴気誠陸軍参謀は責任を感じ、サイパンへの派遣を志願したが却下された。彼は1945年の8月17日に自決した。この戦訓は後の硫黄島の戦い沖縄戦で生かされる事となる。

官僚にも、この方のような人も居られたのですね。

2011年11月14日 (月)

父の生涯って・・・・・深い ④

生前、父が戦艦長門の頃か氷川丸の頃か、聞きもらしたが、台湾だろうか?南方で現地の人が小舟で売りに来るバナナほど美味しいものはなかったと、遠い目で・・・・・・。

バナナが高級果物だった頃、父が時折買って帰ることがあったのですが、あの忘れ得ぬ味を教えたかったのでしょう。

私、朝は畑で育つケールと人参、そして夏の収獲ゴーヤを冷凍したものをミックスしミキサーにかける、網で濾してバナナを加え飲みやすいグリーンジュースをいただいています。

バナナとゴーヤの効能なのか、15分以内に夫婦でトイレ争奪となるのです。

毎日2本づつは使うので、父の想うあの完熟バナナとは程遠いのでしょうが、痛む寸前の半額品にいたくお世話になってます。

妻も衰えたとはいえ、テニスで鍛えた脚力は半額セールフィールドで大いに生かされてます。

おかあちゃん、ありがとござます。

2011年10月26日 (水)

父の生涯って・・・・・深い ③

百田尚樹著 永遠のゼロ

空襲と空戦が終わると、三機は阿吽の呼吸で敵飛行場の上空で編隊を組み、そこで宙返りを演じてみせたのです。それも三度続けて。それはみごとな宙返りでした。三機がまるで一つの飛行機のように一糸乱れぬ動きでした。何も知らされていない私たちはあっけにとられて見ていました。三機は更に大胆に高度を下げるともう一度宙返りを行いました。三人の名人が行うと、これほどまでに美しい編隊宙返りが出来るのかと想いました。

驚くのは、この間、敵飛行場からは一発の対空砲火もなったことです。

”日本軍であれば指揮官は「撃て、撃ち落とせ」と絶叫したはずです。

ここに彼ら敵国のユーモアと度量の大きさを感じます”

対戦当初、戦闘能力の傑出したゼロ戦にのる優秀なパイロット達はゼロファイターと呼ばれ敵に恐れられていたそうです。

しかしながらやがて、人間より兵器が大事という思想は、次第にベテランパイロットを失うこととなり、また新人パイロットを育成できない事態を産むことになりました。ゼロ戦は防御機能を犠牲にして戦闘能力を強化していることが敵に解明されるや、ゼロ戦も過去のもの、ただの標的となってゆきます。

東京は106回の空襲を受けたそうですが、1945年3月10日の大空襲が最大規模であったそうです。

物資、燃料不足の為、戦艦長門はこの時横浜港に繋留されたままだったとか。

父が海軍だった為か?当時母が一緒だったかどうかも不明ですが、3月17日に私の出生届けは横須賀で出されました。