父と母 Feed

2019年4月11日 (木)

考えにくい・・

某大学筋とか

科学者?的には延々と

「被曝の影響とは考えにくい・・」状態を

堅持中なのです。

「それを考えては飯が食えない」状態ならお気の毒

私の亡父を良く知る方の話では

父も少々考えにくい人でありました。

誰もが避けて近づかない

某暴力団A組事務所にのこのこと・・

ブザーを押しました

「なんじゃお前えー」

「アノー・・植木の事で・・・」

「植木屋か?用はねー帰れ帰れ・・」

「いや・・植木屋じゃないんですが・・」

「なんなら?」

「玄関わきの松移植したんですか?」

「それがどーした?」

「枯れかけてるんで・・可哀そうで・・」

「じゃからなんじゃー言うんじゃ・・」

「あのー、此のままじゃ枯れそうなんで・・・」

「・・・・・・・・・」

「差し支えなければ、預かって養生させたいんですが・・」

「・・・お、親分・・し・社長に聞いてみるけー」

のようなやり取りがなされたとか

2018年8月 2日 (木)

井戸・・

田舎の家には井戸があります。

父母や子供・・そして母の里の叔父たちが

仕事の合間に掘った井戸です。

先日井戸ポンプを点検していただき、

誠に冷たい水が迸るようになりました。

かつては西瓜を冷していた事を懐かしく想いだします。

夜中にフト眼がさめるといつも母は洋裁の

仕事をして居るのです。

「母さん何時寝るん?」

と子供心に母を気遣い口にした事も度々です。

近所の施設で世話になっている95歳の母も、

最近はこの家の事・・・

口にしなくなりました。

全国で

こんな話が溢れているのでしょうね。

2017年12月29日 (金)

母の入院

母が転倒、最悪パターンともいわれる

大腿骨頚部骨折という次第。

年末年始に商売上多忙な時期の妹の近くより、

一番暇な私めの住まい近くの整形外科に

転送入院いたしました。

術後10日少々・・晋三の心臓なみなら申し分ないのですが、

このところ94歳でもあるし

機能低下状態のアクシデントでしたので、

気を揉んだ事・・・。

幸いにして高齢の割りには回復力もまずまず・・

合併症も無く、リハビリに励んでおります。

しかし付き添ってますと、

医師は何時食事するの?

何時・・休むの?

そして

スタッフの皆さんは細かな事までフットワークの軽いこと・・

感嘆の連続で御座います。

コスプレの看護師姿に萌えた

過去の己を深く反省し、

陳謝する次第であります。

2017年8月20日 (日)

特攻と特高

今日は12歳の時終戦を迎えたという母方の叔父を送りました。

11年前に父の葬儀で親戚代表挨拶をしてくれた事もあります。

戦中世代は次第に少なくなっています。

海軍だった亡父は

鹿児島の知覧で涙したと母は思い出を語ります。

私も屋久島を訪れた時、知覧まで足をのばしました。

臍も曲がってる私は感動の中にも、

同時に優等生の作文だけをみせられたかのような、

「これは肉声じゃないだろう?」違和感を抱いてしまいました。

厳しい検閲を前提で書かれたわけでしょうから・・

その行間を推しはかる努力をしたいものです。

体当たり攻撃っていうと9;11を想う若い方も多いでしょう。

これって日本人特有の出来事だったんだろうか?

調べてみると・・・当時ドイツ・イギリス・アメリカ・ソ連いずれも

実施したり検討したり・・

しかしヒットラーは懸念を示したという記事も。

日本の様に命運を非効率な作戦に託し、

止める事が出来なかった国は無いようです。

日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由

似て非なるものなのか?

同質なるものなのか?

考えなければならない事と思います。

特攻特高

戦後彼らの死が

外国人からも称えられるというような事もあったそうです。

また現在、

その死をことさらに美化しようとすることに熱心な勢力もあるようです。

学生達の死を美化するより、

戦火で散った方々の生が

全うされなかった事を哀悼しましょう。

2017年5月 2日 (火)

看護師さんから注意を受けました

父が逝く暫く前は、食べるのだけが楽しみという時がありました。

果物などを良く差し入れました。

結構骨組みの大きい人でしたから、

「太ると動かすのに困るから、余分には食べさせないように」

と看護師さんから注意を受けました。

私自身が食い意地のはったほうですから、

なんだか切なく想えたものです。

加療中の母もよく

「肉が食べたい、濃い味付けが食べたい」

と行くたびに、食事への不満を訴えます。

骨折入院ですのであまり煩くは言われませんが、

食中毒などの危険もなきにしもあらずですね。

私がアメーバーになってる看護師の方のブログ、

とても参考になっています。

非効果的健康管理??

2016年6月 6日 (月)

勝者の復讐

最近舛添氏も矢面に立たされ、難渋させられてるみたいですね。
でも甘利氏にはきっと感謝されてることでしょう。

都議会のボスも擁護の回りそうな気配だとか?????
都庁内部でも知事がしぶとく生き残った時を想うと、
軽はずみな言動は・・・・できませんね・・・。
勝者の復讐ってのは怖いですからね。
報復人事なんて平気でやってくる。

マーガミニ氏著(松崎氏訳)の「天皇の陰謀」のエピローグに
無に帰した獲得」の次覧に「勝者の復讐」の項があります。

これをみれば、私の父の戦争からの帰国なども、
ただ事では無かったのだと、初めて解るのです。

これは私達年代こそが、
知り・覚え・伝えなければと想うのです。

2016年2月14日 (日)

大和側死者3721人、米軍は12人

私の亡父は戦艦長門の下士官だったということもあります。
私たちの世代では宇宙戦艦ヤマトのアニメで懐かしい大和です。
武蔵共々
時代錯誤の巨艦との批判轟々の大和でもあります。
当時の1艦建造費が国家予算の4%を越えた、究極の無駄使いとも・・・。

多くの間違いの中で残された数字は非情であります。
大和側死者3721人、米軍は12人

この比率は太平洋戦争を通じて、総じて同様なのです。

戦後純度の高いガソリンでテストされたゼロ戦中島飛行機製のエンジンは
当時最新鋭の米国グラマンを上回ったのだとか・・・。

ところが、日本の技術の粋は如何にあろうと、
被弾すればたちまち火を噴き、パイロットが防御されない零、
つまり人命尊重の理念が全く欠如した日本の技術は
優秀な多くの人材を無為に失う事となりました。

平成に至り、日本人は殆ど本質のところで
変わってないと想うのは私だけでしょうか?

2015年8月17日 (月)

父が氷川丸に乗っていた頃

海軍だつた生前の父が戦争の事を話す事はありませんでしたが、
公務員だったにも拘らず赤旗配達のボランティアを継続していたところに
父の戦後を想う事が出来ます。

私の生まれたのは昭和20年3月、
父が氷川丸に乗っていた頃なんでしょう。

長編アニメーション映画「氷川丸ものがたり」
虫プロで製作中だとか・・・。

戦後は引き上げ船として無数の岸壁の母に迎えられたことでしょう。



その前は衛生下士官として戦艦長門に・・・・
いずれも不沈で戦後を迎えたのは何かの因縁でしょうか?

今私は太郎氏の声明に耳を傾けています。
その活動に希望を託しています。



戦後70年を迎えて(談話)

2015年3月 5日 (木)

戦後70年:数字は証言する4

岡山は笠岡方面で小学校の給食が始まったのは6年生の時?
昭和33年でしたか・・。
それまでは、お昼休憩になれば教室から黙って消える生徒がまだ居ました。

米国では家畜用の餌だった脱脂粉乳のミルクも
美味しいと飲んだ記憶があります。
コッペパンも半分残し母に持って帰った記憶があります。

あの頃はアメリカは繁栄の象徴でした。
すっかり様変わりしてしまったアメリカですね。

そうか・
この頃の子供は今の子より25センチ近くも小さかったんだ・・・。

みんな栄養不足だったんです。


旧大蔵省は1938年から、国民貯蓄増加目標を設定。1942年度には、目標額として総額230億円を掲げた。国民1人当たりでは月18円余り。しかし、当時の低所得者層は月100円(5人家族)で生活しており、国民の生活実態をほとんど顧みていなかったことが分かる。「暮らしの中の太平洋戦争」(山中恒著)によると、「一日戦死の日」も設けられた。1日戦死したつもりで、その日の稼ぎを全額貯金することが奨励されたという。

2015年3月 3日 (火)

戦後70年:数字は証言する3

貧乏父さんだったの


よく腐ったミカン等と表現されます。
全体主義を貫こうとすれば、見せしめが必要になるのは
いつの世も同じ。
よく腐ったミカン等と表現されます。
「腐った脳」が「腐ったミカン」と吠えるんですから、これは怖い。
「テロに味方するのか?」と同じかも・・・。


最近では山本五十六氏も米英のエージェントだったのでは?
という分析も出てますし・・・・解らん・・。

事実は小説より奇なり・・。